1910(明治43)
[1910]
 同志社大学マンドリンクラブは、1910年(明治43)を創立年としている。創立年を裏付ける資料はないが、菅原明朗氏が次のような文脈で機関誌「SMD会」で回想している。慶応大学との第1回合同演奏会(1936)の頃のエピソードである。
『熊谷忠四郎君の寄贈によりSMDのペナントを作成したが、これを機にクラブの創立年代について真剣に調査したが、正確なデータはどうしても得られなかった。先輩を順にたどって行けば分かると考えた、不可能であった。1914年頃までで、当時の先輩が創立者でなかったということがわかったのが大きな収穫だった。
 原因は当時のクラブはグリーのメンバーのある者が気まぐれにマンドリンを弾き、その人達の集まりが次第に組織化してきた。グリーというグループはあったがマンドリンの方はそのクラブの一部であり、人数もわずかであった。
 最後の望みとして京都楽界の世話役である十字屋の店主に聞いてみると、店主の記憶もはっきりしない。ところが同店の記録に1910年に同志社大学にマンドリンをおさめたというデータが残っていた。学生個人がマンドリンを買ったのなら別だが、学校へ納めたということは何らかの組織があったことが証明される。それでこれをS・M・D創立の年代にしたのである。当時のグリーのメンバーでもあった音楽部長の片桐先生とも相談し、だいたいこの年代に基準をおくのが一番当を得ているのではないかということに一致した』
また元SMD会長大井茂によると、創立は1910年以前と思われ、ペナント作成当時およその見当で創立年を決めたという。
 「 SMD会」1[1960]・「Musastudie」復刊号[1953]


1911(明治44)
[1911]
 神学生の東寮で第三寮長の片桐哲の指導で、同好の士が合唱の練習を行っていたが、夏休みが終わってすぐ、東寮の六寮2階にあった14畳の集会室で全寮生の連合弁論大会が催された際、8名の男声3部合唱で旧讃美歌317番「はなよりもめでにし」が歌われた。この時初めて、片桐哲の命名によるグリークラブを公に用いた。メンバーは、高音部に平田甫・松岡繁・片桐総、中音部に蜂谷為三・谷喜楽・平賀徳造、低音部に浜田光雄・川中忠治であったらしい。
 この時の発表が認められて、12月のクリスマス礼拝に同志社公会堂(チャペル)の後二階から、蝋燭の火(瓦斯燈は大きな音をたてた)で「ほしをしるべに」を4部で歌っている。この頃には、メンバーも18名に増えて、錦織貞夫・佐竹直重・三矢信三・清水久男・岩村清四郎・浜田裕・三宅譲・美濃部菫・柳島彦作等が参加している。錦織・美濃部はSMD創立期のメンバーでもある。
 「創立30周年紀念号(グリークラブ)」
1913(大正2)
[1913]
 錦織貞夫(青山学院中学部から1911年同志社大学神学部入学)、友人の三高学生森村豊(洛陽教会員)よりマンドリンを譲渡さる。これは、森村が東京の英国人教師イーストレーキの令嬢から贈られたもの。当時、マンドリンは珍しく、錦織がいた神学生の西寮(室町今出川上ル西)に「錦織の西瓜」といって神学生が皆見にきた。錦織は、青山学院の教師の紹介でマンドリン奏者を訪問し、トレモロを教授してもらった。1年ほど一人で讃美歌を弾いていたが、浜田格というヴァイオリンを練習していた新人が入学したので、マンドリンを与え、自身は東京の義弟よりマンドリンを送ってもらい、二重奏を始める。その後、十字屋楽器店でマンドリンとピアノを演奏していた三高生と4人で練習し、同志社チャペルでも演奏する。
 以上は錦織の回顧によるものだが、これをきっかけに神学生の中で数名のものとグループを組んで演奏をはじめたとされる。この年をSMDの創立年とすると、従来いわれている1910年とは3年のずれがある。
 グリークラブの「創立30周年紀念号」(1935)の平田甫の回顧によると、この頃グリークラブの中心はどうしても神学生であった関係から、いつとは無しに部員の井上美憲・川中忠治等が集まって、河原五郎・柳島彦作と団体をつくり聖歌以外の歌を歌い始め、プリムローズバンドと称し、一方で、各教会を応援するため器楽の必要を感じて錦織・美濃部菫・内海孝夫と集まって、マンドリンを始め、これが同志社のマンドリンクラブの卵となったとある。
 SMD機関誌「Musasutudie」(1953)掲載の小野義夫(本部外事部・文連顧問)の回想によると、当時のメンバーは錦織・美濃部・片桐弘(大7大経)・小島應・山口隆俊(大13大政)・塩田達二であったという。
 「SMD会」2・5[1962・66]・「創立30周年紀念号(グリークラブ)」・「Musastudie」[1953]

[1913. 5.24]
 同志社の音楽熱も盛んになり、全体としての音楽会が望まれるようになったので、全同志社音楽会が開かれる。以下はプログラム。
1.開会の辞 芦田教授
2.オルガン演奏 郭 馬西、陳 清忠
3.コーラス グリークラブ
4.二部合唱 河原五郎、志水義孝
5.台湾弦楽 林 育伯
6.コーラス グリークラブ
7.オルガン演奏 オズグッド嬢
8.コーラス プリムローズソサエティ
9.独唱 グローバー教授
10.四部合唱 錦織貞夫、浜田 格、平田 甫、川中忠治
11.オルガン演奏 富永 孟
12.朗詠 ケリー教授
13.コーラス グリークラブ
 四部合唱ではこの頃人気のあった「コールジョン」を演奏したが、動作をつけて歌ったため、ある教授から「神聖な場所でなたる事ぞ」と叱言を頂戴したとか。
 「Who are we」

[1913.10]
 グリークラブのなかに、聖歌以外のものも歌いたいという希望から、「プリムローズバンド」が結成される。これは、ほどなく「プリムローズソサエティ」と呼ばれるようになった。プリムローズという名称は、『桜草のことで、その昔イギリスの国会で活躍した上院議員のビーコンスフィルド卿が、議政壇に立つとき常に上衣のフラワーホールにプリムローズの花を挿していたと言う故事来歴によるものであった』(西邨辰三郎)という。
 創立者の一人柳島彦作は次のように述べている。『大正2年頃かと思うが、学生生活をもっと潤いのあるものにしたいというので、或夜東門前町にあった三輪源造氏宅の二階で原忠雄氏、川中忠治氏、平田甫氏に小生が集まり相談した結果、宗教的なものに限らずもっと自由な範囲の合唱団を作ろうという事になり、プリムローズが創立された。最初の部員は井上美憲氏、河原五郎氏、平田甫氏に小生であった』
 「Who are we」

[1913.11]
 同志社イブの前身たる「同志社音楽会」が開かれる。三条YMCA。
 「Who are we」
1914(大正3)
[1914]
 錦織貞夫の回想によると、同志社のマンドリン同好者も専門学校政治経済科内の学生からも現れ、美濃部菫・東正義・川中忠治等が会員になり、10名程になったので、正式にマンドリンクラブを組織したという。楽譜もイタリアから取り寄せた。曲名不明。この頃、錦織は慶応義塾大学マンドリンクラブの講師をしていたサルコーリ氏に、マンドリンを学んだ。
 「SMD会」3[1962]

[1914.11.29]
 京都声楽会第2回音楽演奏会にグリークラブとともに、「フォンタナクラブ」の名称でマンドリン合奏出演。曲目は「アルラ・ステルラ・コンフィデンテ」ワルター、「歌劇カヴァレリア・ルスチカナ間奏曲」マスカーニ。
 京都声楽会は、明治44年頃小学校訓導一木俊之等が始めた四重唱を母体とした合唱団。当初コーラス会と称したが、グリークラブの河原五郎が加わり、その発展を企画して京都声楽会と名付けた。京都声楽会は大正2年(1913)に第1回発表会を開いている。
 「京都音楽史」