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[1946. 9]
 戦時の学年短縮の名残りのため卒業は9月であったが、復員組のほとんどが卒業し残る部員は湯浅以下4名となる。再びクラブ存亡の危機に立たされるが、
新入部員勧誘に奔走した結果、部員も少しづつふえる。技術指導者がなく、金谷保夫が社会人ながら指揮者で参加。楽器の入手が困難で、又、練習場も森・平井
・松本等の部員宅やOB宅を転々とした。その間、森を中心に小演奏会やラジオ放送を続けたが、基礎からの練習も始めた。
 プログラム(定演97)
[1946.11.?]
 戦後最初の同志社EVE演奏会出演
 
[1947. 8. 4]
 富田勇吉逝去。
氏はSMD創立者の一人で、また、トミタ・マンドリン合奏団の主宰者として斯界の発展に尽くした。
 明治28年(1895)、京都市新町四条上ル富岡家に生まれる。中学時代、東京在のサルコーリと門下生の京都演奏会に接し、刺激を受けてマンドリンを購入。半年程かけて師を捜しマンドリンを習得。
 大正7年(1918)、同志社大学経済学部卒業。在学中は、SMD創立期のメンバーとして活躍。
 大正10年(1921)6月、結婚し富田姓を名乗る。大阪船場で毛織物英国直輸入商の傍ら、門下生指導と合奏団設立。夫人の艶子女史も氏の影響でマンドリン・ギターを習得。
 大正13年(1924)、トミタ・マンドリン合奏団第1回定期演奏会を京大学生会館で開催。以後、大阪で年2回定期演奏会を開催することとする。
 大正14年(1925)12月、ラファエロ・カラーチェ氏来日に協力。カラーチェ氏所蔵のリュート・クラシコ・モデルノを譲ってほしいと直談判。その熱意にほだされ、カラーチェ氏は帰国後同じものを製作して送る。
 昭和6年(1931)、思うところあり毛織物商をやめる。富田マンドリン・ギター研究所設立。同志社大学・龍谷大学・京都女子師範のマンドリン・クラブを指導。NHKより、合奏・五重奏・独奏を放送。門下生も数多く紹介放送し、好評を博する。
 昭和15年(1940)、紀元2600年記念京阪神合同演奏会に指揮者として出演。学生のクラブを除いて有力な10数団体が参加し、選抜メンバーだけで100人を越えた。
 昭和16年(1941)2月2日、京阪神マンドリン・ギター連盟結成。会長に推薦される。「京阪神マンドリン・ギター界」創刊。発行は創刊号のみ。戦時中、各地の病院・兵舎で慰問演奏。空襲の最中愛器のリュートを抱いて避難。
 昭和22年(1947)8月8日、発病後3日目で急逝。精音院行楽日勇居士。
 マンドリン・オーケストラのための作品に、「祭り」「前奏曲ト長調惜春」がある。
 「フレット」92[1979]
[1947.11]
 京都府園部町演奏会。園部中学校講堂。
金谷保夫指揮
1部:
  「悪魔の饗宴」マチョッキ
  「踊る小花」武井守成
「村里」ガルガーノ
  「落ち葉の精」武井守成
 ソプラノ:高橋淳子
  「子守唄」モーツァルト
  「ホーム・スイト・ホーム」ビショップ
 「糸杉の森にて」サルトーリ
 「幸運の星」フレンド
2部:
  「Love’s Queen」デリア
 「ミレーナ」マチョッキ 
 ソプラノ:高橋
  「オ・ソレ・ミオ」カプア
  「遥かなるサンタルチア」マリオ
  「帰れソレントヘ」クルティス
 「スペインの印象」ブーシュロン
 「ヴィヴァ・モンツァ」フリゲリオ
 出演は部員とOBで計15人。うち、金谷をはじめ9人は復員者。
 津川メモ
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| 園部町演奏会 | 
[1947.11.28]
 同志社創立72周年記念EVE音楽会出演。栄光館。
SMD:
 金谷保夫指揮
 「初秋の唄」武井守成
 「踊る小花」武井守成
 「ソレントの女」ファンタウツィ
 「ムーア人のグラナダ」ガルシア
 プログラム
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| EVE音楽会 | 
[1947.?]
 西日本大学予科文化祭。西日本大学予科文化連盟主催。
SMD:
 「悪魔の饗宴」マチョッキ
 「幸運の星」
 「英雄行進曲」ムニエル
 同大・関大・関学・立命館・神経大・理工大・大商大の各サークルが出演。
SMDは同志社大学予科マンドリンクラブの名前で出演。
この文化祭で、チェホフ(小山内薫訳)の劇「犬」で牟禮丈夫(S25)が舞台監督をつとめている。
 プログラム
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