1948(昭和23)
[1948. 1.13]
 熊谷忠四郎逝去。享年49歳。
1900年京都に生まれる。京都三中を経て1927年同志社大学法学部卒業。在学中から、イタリア・フランス・スペイン等に於けるプレクトラム音楽の文献的研究と卓越した低音楽器の演奏で知られた。 熊谷のトレモロは有名で、堀清隆は『この人のトレモロ(即ち音)恐らく同志社大学マンドリンクラブ始まって終わりに至るまで、他の追従を許さない程名人に近いと思える。それだけ自ら勉強し、これに全力を注入した人であった』と述べている。
 プログラム(私演42)・「Musastudie」3[1956]

[1948. 4]
 新制大学発足。
 昭和20(1945)年、終戦時のいわゆる旧制の同志社大学は法文学部という1学部のみの小型の大学であり、その中に神学科・厚生学科・法経学科という三つの学科があった。これはむろん戦時下の学部統合の結果であった。大学の下に予科があり、これは旧制度の高等学校に当たるもので、所定の科目を履修して卒業さえすれば、大学に無試験で進学できるという制度であった。今出川校地に大学と予科のほか、同志社外事専門学校・同志社工業専門学校・同志社中学校・同志社女子専門学校・同志社高等女学校、岩倉校地に同志社経済専門学校の諸学校があった。
 昭和21(1946)年、いよいよ同志社再建に向かっての歩みが始まり、4月にはもと通りの2学部、すなわち文学部(神学科・英文学科・文化学科・社会学科)と法経学部に復元した。神学科は、昭和22(1947)年には神学部として独立する。
 これら各学部と予科・外専・経専・工専それぞれが、新制大学を目指して準備にとりかかった。そして、昭和23(1948)年4月、新制移行の先頭を切った12 私立大学のひとつとして同志社大学も新制大学となる。学部は、神・文・法・経の4学部で発足し、翌昭和24(1949)年商・工を加えて6学部となり総合大学を形成した。
また、1・2年次生を収容する教養学部も設置したが、3年後には制度として姿を消す短命な存在であった。
 「同志社百年史」

[1948. 5. 8- 9]
 復活第1回立教・同志社グリークラブ交歓演奏会。大阪YMCA(8日)・栄光館(9日)
SMD: 金谷保夫指揮。
 「悪魔の饗宴」マチョッキ(大阪)
 「ミルタリア」マチョッキ(京都)
 「オラツイオ兄弟とクリアツイオ兄弟序楽」チマローザ
 プログラム・「who are we」

[1948. 5.30]
 同志社コンサート。京都同志社クラブ、同志社新島会創立記念。栄光館。
SMD:
 「楽しき歩み」作曲者不詳
 「アンダルーズ」ラコム
 「小公女」ハーディ
 「ヴィヴァモンツァ」フリゲリオ
 プログラム

[1948. 6.20]
 第42回私演会 故富田勇吉氏及び熊谷忠四郎氏の霊に捧ぐ。栄光館。
挨拶:片桐哲
1部: 津田 一指揮
 「幼き姫君」ハーディ(マチョッキ)
 「いとすぎの森にて」サルトリー[故富田勇吉氏の霊に捧ぐ]
 「無言詩」ブラッコ[故熊谷忠四郎氏の霊に捧ぐ]
 「アンダルーズ」ラコーム
 「ミレーナ」マチョッキ
2部:
  同志社大学グリークラブ:「Standchen」他
 「演奏会用マズルカ」C.ムニエル[森英男マンドリン独奏]
 「ラ・クンパルシータ」「ホタ・アラゴネーズ」[山口信雄ギター独奏]
 金谷保夫指揮
  「アンネンポルカ」J.シュトラウス(菅原明朗)
  「行進曲ヴィヴァモンツァ」フリゲリオ
  「ムーア風のグラナダ」ガルシア
 グリークラブ(オーケストラ伴奏):「カレッジソング」

 戦争をはさんで5年ぶりに開催。現役は森英雄以下17名、OBは大井茂・山崎喜三郎以下24名が参加。
 第1マンドリン10、第2マンドリン9、マンドラ6、マンドロンチェロ3、マンドローネ1、ギター9、コントラバス2、ティンパニー1、タンバリン1、トライアングル2
 プログラム(私演42)

第42回私演会

同 パンフレット

同 チケット

[1948. 8. 7]
 同志社大音楽会。赤穂校友会主催。赤穂町元高女講堂。
SMD:
 「なでしこ」バウマン
 「ヴィヴァモンツァ」フリゲリオ
 プログラム

[1948.10.27-28]
 同志社音楽会。同志社EVE。栄光館。
SMD:
 「なでしこ」バウマン
 ラコッチマーチ」
 プログラム

[1948.11.28]
 同志社創立73周年記念EVE音楽会出演。栄光館。
SMD:
 「初秋の唄」武井守成
 「私のアルハムブラ」ガルシア
 プログラム