1983(昭和58)
[1983. 3.11]
 SMD・同志社女子大学マンドリンクラブ合同演奏会。大谷ホール。
1部:同志社女子大学 浜田英子・高尾真澄指揮
 「レナータ」ラヴィトラーノ
 「夜想的間奏曲」クレパルディ
 「仮面」マスカーニ(ボッタキアーリ)
2部:SMD 石村隆行・手嶋文彦指揮
 「クレオパトラの変貌と死」ベルッティ
 「エムマ・イソッタ」ボッタキアーリ
 「マドリッドの夏の一夜の思い出」グリンカ(中野二郎)
3部:合同ステージ 高尾・手嶋指揮
 「ギリシヤ風主題に拠れる序楽」ラウダス
 「組曲吟遊詩人」アマデイ(中野)
初の合同演奏で総勢80名。15年前にSMDより女子大学部員が分離し、同志社女子大学マンドリンクラブを結成した。
 プログラム・「SMD会通信」[1983.3.30]

[1983. 3.?]
 春季合宿。加太国民休暇村城ヶ崎荘。
 中野メモ

[1983. 5. 4]
 京都学生マンドリン連盟第20回合同演奏会。京都会館第1ホール。
SMD・ノートルダム女子大ブロック
 松島保子(ND)・手島文彦(同大)指揮
  「ナブッコ序曲」ヴェルディ(橋本良治)
  「デルラ・カルソン」ボッタキアーリ
  「協奏曲ハ長調」ヴィヴァルディ(中野二郎)
 プログラム

[1983. 5.25]
 第102回定期演奏会  大阪森ノ宮青少年会館。
1部:石村隆行指揮
 「序曲美しの詩人」アンチロッティ(ビアギ)
 「間奏曲瞑想」マネンテ
 「小交響詩クレオパトラの変貌と死」ベルッティ
 「組曲スペイン」ファルボ
2部:手島文彦指揮
 「美しきギリシヤ姫」チマローザ(中野二郎)
 「ボレロ」カペレッティ(中野)
 「第二小組曲」ミケーリ(中野)
3部:手島指揮
 「東洋の印象第一組曲」アマデイ(中野)
 「田園組曲」ラコンベ(中野)
当日、会場の1階フロアーで過去の定期演奏会、その他の写真を展示。
「SMD会通信」に「第102回定期演奏会を開催するにあたり」として『今回の定演は、何故、毎年春は大阪でやるのかということを考えました。やはり春の定演は秋の定演に比べて、いま一つ盛り上がりに欠けるということであります。ただ漠然と毎年行っているからという理由だけでは進歩がありません。そこで我々は、大阪という土地は大学よりもむしろ高校の方がマンドリン音楽が盛んということを主眼において定演を行ってみようと思いました。今回の着眼点がどのような結果になるかは未知ですが、今後とも何故、春の定演は大阪でやるのかという意味をよく考え、より一層すばらしい演奏会となるよう努力したいと思っております』とある。
 プログラム(定演102)・「SMD会通信」[1983.3.30/5.1]

[1983. 8. 4- 9]
 夏期合宿。猪苗代、民宿「松屋」。
 「SMD会通信」[1983.7]

[1983. 8.11]
 仙台演奏会。仙台市民会館。
1部:石村隆行指揮
 「ルスランとリュドミラ序曲」グリンカ(中野二郎)
 「祈りの鐘」メラーナ・フォクト
 「チャルダス第8番」ミケル(ラニエリ)
 「主題と変奏」ミラネージ
2部:手嶋文彦指揮
 「古代ローマの心酔者」チマローザ(中野)
 「フリシオへ」コンテ
 「水青きハワイの海にて」ケテルビー(ラニエリ)
3部:手嶋指揮
 「交響的前奏曲」ミケーリ(中野)
 「ロマンツァ」ブラッコ
 「英雄葬送曲」O.ラッタ
 プログラム(仙台)

[1983. 8.31]
 東海マンドリンフェスティバル出演。名古屋市民会館大ホール。
 「SMD会通信」[1983.7]

[1983.11. 7]
 京都府赤十字大会出演。京都会館第1ホール。
 依頼状(日本赤十字社京都府支部)

[1983.12. 6]
 第103回定期演奏会  中野二郎先生20年謝恩。京都会館。
1部:石村隆行指揮
 「ルスランとリュドミラ序曲」グリンカ(中野二郎)
 「楽興の時」マンデルリ
 「主題と変奏」ミラネージ
 「田園組曲」アマデイ(中野)
2部:手島文彦指揮
 「古代ローマの心酔者」チマローザ(中野)
 「山の夜明け」ベルッティ
 「ジプシー風綺想曲」マルチェルリ(中野)
 「瞑想曲夢の魅惑」ボッタキアーリ
3部:手島指揮
 「ト調のシンフォニア」カペレッティ(中野)
 「水彩画鶴は飛び立つ」スコンツォ
 「交響的前奏曲」ミケーリ(中野)
 「英雄葬送曲」オテルロ・ラッタ

 中野二郎氏はプログラムで『私にとって未知の佳曲を見出すことは何よりも嬉しい。なけなしの才能を振り回して創作するよりも、むしろその方が意味があると思うようになって了った。私が過去20年間に同志社マンドリンクラブ上演のために拾い出し編曲したもの他、私から提供した佳曲をざっと数えてみると150 曲を越えている。これは代々の指揮者の熱意、OB指揮者岡村君の行為が斯らして結実したものと思われる。明日のことは計り知れないが、意欲だけは少しも衰えていないので、この調子を何とかして続けたいと希っている』と述べられている。
 この演奏会は、中野氏の技術指導20年記念の定期演奏会としたが、氏は20年を機会に猶予期間を1年として、クラブ指導の辞退を表明された。
 プログラム(定演103)・「SMD会通信」[1984.1.25]