1922(大正11)
[1922. 2.25]
 第1回私演会  京都教会。春秋2回の私演会を開くことを決定。
1部: 「聖ボニファッティオのオベルト伯」ヴェルディ(ムニエル)
 マンドリン二重奏「演奏会用二部合奏曲」ムニエル作品9の1
 マンドリン四重奏「第一独創的ト長調四部合奏曲」ムニエル
 マンドリン独奏「愛の夢」ムニエル[上田啓三]
 「ベニスのゴンドラ」メンデルスゾーン(ムニエル)
2部: 「村の祭」カンナ、マンドリン四重奏「ニ長調四部合奏曲」ムニエル
 マンドリン二重奏「演奏会用二部合奏曲」ムニエル作品11の3[浅井長・上田啓三]
 マンドリン三重奏「子守歌」ムニエル、「かがひ」堀清隆

第1回私演会パンフレット

 このころの練習場はチャペルか有終館地下室。その後、図書館(現啓明館)南側の女学校との境界にあった畳もない平屋で練習、寺小屋と称した。譜面台は、学校前の中井食堂か東門前にあったユニオン食堂に預けた。放課後、15銭の「イモネギ」を食べ、暗くなるまで練習した。又、今出川烏丸西入の十字屋所有の建物でも練習した。
 プログラム(私演1、定演97)・「SMD会」4[1964]

[1922. 4.14]
 漕艇部主催、朝日新聞社後援の本年度音楽学校優等卒業生を主とする音楽会にグリークラブと共に賛助出演。
 「同志社時報」198[1922]

[1922. 6.10]
 大津組合教会主催の大音楽会にグリークラブと出演。大津公会堂。
他に、片岡晴太郎(ピアノ)、守邦かほる(独唱)。入場料は2円、1円、50銭。
 「創立30周年紀念号」(グリークラブ)

[1922.10]
 第2回私演会  京都市公会堂。
桂直樹指揮。
 「メリアの平原に立ちて」マネンテ。以下不詳。
 プリムローズ、グリークラブと共演。部員の増加でパート編成も整い、マンドリンオーケストラとしての形態を一層完成に近づけた。
 第1マンドリン副田以下5名、第2マンドリン続木以下5名、マンドラ熊谷以下4名、マンドチェロ堀井、ギター益戸以下3名、コントラ・バッソ堀、ティンパニー下村、ピアノ加納和夫、アルモニウム森本芳雄、トライアングル三上。
 「同志社50年史」

[1922.11. 5]
 プリムローズとの合同で奈良演奏会。
菅原明朗氏が来聴。氏は元来画家であったが、傍ら音楽の研究にも熱心で、後に音楽を専門とする。同日、OBの上田啓三・富田勇吉の仲介によって、菅原氏技術講師となることを承諾。氏の音楽上の知識と才能は、以後のクラブに多くの影響を与える。
 「同志社50年史」

[1922.11.11]
 音楽部主催同志社大学学生音楽会。京都市公会堂。
グリークラブ、プリムローズ、マンドリンクラブ出演。入場料は2円、1円。
 「同志社時報」の評に『マンドリンクラブは上手になった、そして善い曲を選んでいるので嬉しい。あれでピックの使い方とピアニシモ(ピアニシモの時に手首を立てて弾くことは如何かと思ふ)を今少し上手に弾いてくれたら。マンドリンクオルテットは日猶浅いので止むを得ないが、タランテラはメヌエットを聞いて居る様でタランテラの気持ちが出ていなかった。アリエンツオのカプリシオもテンポはもっと早い方がよい』とある。
 「創立30周年紀年号」(グリークラブ)・「同志社時報」204[1923]

[1922.12]
 武井守成氏主宰の第1回全国マンドリン合奏団競演会の準備として、菅原明朗氏指導の下に猛練習を始める。
 目標としたのは、自他共に最優秀団体と認められていた慶応義塾マンドリン倶楽部であった。しかし、競演会への申し込みが期限(11月10日)に遅れたため出演不能となる。ところが、当の慶応が武井氏をはじめ各方面に斡旋してくれたため、出場することができた。
 「マンドリンギター研究」誌は『同志社大学マンドリンクラブが規定の申込期日を約一週間遅れて申込まれた為に、主催者としては乍遺憾申込を受理しなかった事。及び之を聞かれて慶応マンドリン倶楽部が各合奏団の意向を照会して居られる事は前号所載の通りでありますが其結果各合奏団は全然慶応マンドリン倶楽部の提言を賛せられ同志社大学マンドリンクラブの参加を希望する旨回答せられたので茲に慶応マンドリン倶楽部は主催者に対し各合奏団の回答書を添付し正式に同志社参加取計方を申し込まれました。茲に於て主催者は異議なく右提議を容れ改めて同志社に対し参加を求め、課題曲を送付する事に成りました。本邦に於ける第一回のコンコルソに於て、敵手の不参加を遺憾とし進んで之が参加の道を講ぜられた慶応の態度は実に見上げたものであり更に全合奏団が諸手を挙げて賛意を表せられたことは実に日本斯界の為に永久に其美しさを語るものであります』と報じている。
 「同志社50年史」・「マンドリンとギター」8(1)[1923]