1923(大正12)

[1923. 1.21]
第1回全国マンドリン合奏団競演会 でSMD優勝。武井守成氏主宰シンフォニア・マンドリニ・オルケストラ主催。東京帝国ホテル。
 審査委員は、グリエル・ヅブラウィッチ教授・瀬戸口藤吉・大沼哲・小西誠一。
課題曲はブラッコの「ロマンツァ(無言詩)」。参加団体とその随意曲は、東京帝国大学マンドリンクラブ「聖ボニファッチオのオベルト伯」ヴェルディ(ムニエル)、アニママンドリンクラブ「伊太利の復活」ドリゴロ、慶応義塾マンドリン倶楽部「夜の印象」ド・ジョバンニ、ソチエタ・マンドリニスティカ・ディ・ヨコハマ「過去への讃仰」フォクト、東京プレクトラムソサエティー「伊太利の復活」ドリゴロ、オルケストル・エトワール「アンデスの花」ド・ジョバンニ、関西大学音楽部「歌劇フラ・ディアヴォロ抜粋曲」オーベル、同志社大学マンドリンクラブ「メリアの平原にて」マネンテの8団体であったが、関西大学が棄権したため7団体で、関西からは同志社が唯一の参加。
 同志社のメンバーは総勢18名。桂直樹指揮。下村安広・副田壬一・宮井登・池田準左右(第1マンドリン)、太田黒養二・大角秋夫・寺内・加納和夫(第2マンドリン)、熊谷忠四郎、鋤柄知三、村井(マンドラ)、堀清隆・益戸銈之助、井上良吉、山本(ギター)、富田勇吉・堀井隆吾(マンドロンチェロ)。
 その様子を武井氏の文より引用すると『参加したのは・・・その頃一流の合奏団のみ8団体で、戦前の予想では、第一候補「慶応」、第二候補「東京ソサエティ」というのが一般の観察であった。もっともこの予想は大体東京人の立てたものであるから、自然平素耳にする機会の多い合奏団を対象にしていることは云うまでもない。同志社の技量を多少弁えていた菅原明朗氏ですら同志社の優勝は考えていなかったらしい。(中略)同志社は全く玉砕的な演奏を行なった。優勝等は全く念頭になかったという事を後に聞いたがそれは充分肯ける。懸命に演奏するという以外には何の考えもなかったらしい。課題曲は極めて率直に弾かれ、随意曲は極めてデリケートな表現に成功し、一般をアッといわせた。「慶応か、同志社か」、一般聴衆は審査の結果を待ったのであった。審査員は、詳細な記録を基礎として会議を開いたが、結果は全員一致で同志社を挙げ遂にこの遠来の一合奏団は優勝してしまった。この時を機として、S.M.D.は一方の巨頭として認められるようになった』
 桂直樹の回想によると、「メリア」の最後のフォルテが終わった途端、第1マンドリントップの下村の弦が切れた。弦の調整を行なっている間、課題曲の演奏開始を命じる2度目の催促のベルが鳴り、桂は審査員席に向かって「ただ今糸が切れましたので済みませんがもう少しお待ち下さい」と一礼したという。

メリア全景 中心部はメリア村

メリア陸軍兵舎跡 1893年マネンテが歩兵第60連隊と駐屯

メリアから地中海メッシーナ海峡を挟んでシチリア島を望む

[以上、岡村光玉(S45卒)撮影 1989.7.23]

 このコンコルソでは菅原氏の強い指示で全員足を組まずに演奏。これまでの習慣とは違い苦しい練習であったが、これが審査に際して演奏態度の得点にも利したという。
武井会長からも姿勢・態度等は同志社が最も立派で、足を組まなかっただけでなく指揮者に対する態度、演奏態度、演奏開始における動作は実に見事であったとの賛辞があった。優勝杯は、武井会長から部代表の益戸に手渡された。

第1回全国マンドリン合奏団コンコルソ 帝国ホテル

この時より、現在使用しているクラブの名称を付した。
本年譜でも以後、SMDと記述する。

尚、第1回私演会パンフレットでは、Doshisha University Mandolin Clubとなっている。
 「同志社50年史」・プログラム(定演97)

[1923. 1.27]
 京都YMCA主催、関西大学高専連合大音楽会。京都市公会堂。
出演団体は、同志社(SMD、グリークラブ、プリムローズクラブ)、竜谷大学合唱団、大谷大学(マンドリンクラブ、ハーモニカバンド)、京都高等工芸合唱団、神戸高等商船合唱団、京都帝国大学三高合同弦楽団。
 「創立30周年紀念号」(グリークラブ)・「京都YMCA七十年史」

[1923. 5.29]
 プリムローズと合同で大阪演奏会。中之島中央公会堂。
SMD: 「メリアの平原にて」マネンテ、「無言詩」ブラッコ、「前奏曲」大沼哲、 「組曲スペインの印象」ブーシュロン、「古典の幻影」菅原明朗。
 大阪毎日新聞によると「マンドリンオーケストラの大曲初演」として、フレット属楽器の研究家として知られている菅原明朗氏がSMDのために交響楽「古典の幻影」を作曲して、大阪の地で初演する事になったとある。
 「マンドリンとギター」8(2)[1923]・「大阪毎日新聞」[1923.5.27]

[1923. 7. 3-24]
 九州・台湾演奏旅行。
片桐哲教授引率のもとSMD14名、グリークラブ12名。
7月3日:京都出発。 同日、岡山教会記念館演奏会。聴衆400、山陽女学校等の団体来会。同記念館・校友宅に宿泊。
4日:日本銀行・病院・農園等を見学。倉紡事務所食堂にて歓迎夕食会後、教会堂にて演奏会。夜行にて九州に向かう。満員の車中に、手相を良くみる人がいて一行のほとんどが各自の運命を見てもらう。
5日:門司では市内見物。
6日: 、長崎に向かう車中では、グリークラブ指南のもとにSMDが合唱。長崎で、浦上天主堂・キリシタン遺跡・造船所等見物。諏訪神社では一同英文のお御籤を引く。午後8時より演奏会。
7日:福岡演奏会。神戸より乗船の速水藤助教授を加え、9日、両クラブ20名で笠戸丸で出港、船酔者続出。喫煙室を独占し、練習や船客のための演奏を行なう。
12日:基隆入港後台北に向かう。
13日:台北演奏会。

台北にて
14日:淡水見物後、台北演奏会。
15日:台北教会にて讃美礼拝。
16日:台南演奏会。

台南にて校友とともに
17日:昼は屏東演奏会、夜は高雄演奏会。
17日:(ママ)嘉義公会堂にて演奏会。
18日:一行の多くは下痢・疲労等で元気無し。台中座にて演奏会。
19日:台北鉄道ホテルで慰労会、その後有志は北投温泉へ。
20日:基隆出港。
23日:一等の広間にて演奏。同船の田総督から夕食を振舞われる。
24日:門司入港。若松演奏会。
 「同志社時報201・202」(1923)・「創立30周年記念号」(グリークラブ)

[1923. 9. 1]
 関東大震災により、関東地方の合奏団が多大な被害を受けた。
中でも、武井氏のシンフォニア・マンドリニ・オルケストラでは貴重な資料が焼失した。このため、SMDでは部員総出で楽譜を手写して武井氏のもとに送った。これを縁として、以後氏は入洛する度に寸暇を割いてSMDを指導された。
 プログラム(定演97)

[1923.10]
 グリークラブと合同で名古屋演奏会。名古屋音楽協会主催。
SMD:
 「マンドリンの群」ブラッコ
 マンドラ独奏「黄昏」武井守成[熊谷忠四郎]
 「クワージワルツ」菅原明朗、「船人の組曲」アマディ
 マンドリン独奏「舞踏調と歌曲」カラーチェ[副田壬一]
 「ハンガリー舞曲5・6番」ブラームス
 「マンドリンギター研究」1(1)[1924.3]

[1923.11.24]
 第3回私演会 マンドリンの夕べ。京都YMCA。
桂直樹指揮
1部:
 「オーロラ」ファンタウィッツィ
 マンドラ独奏「パヴァーヌ」ラヴェル、「黄昏」武井守成[熊谷忠四郎]
 マンドリン独奏「ヴィッツアリーナ」C.ムニエル[副田壬一]
 「第一前奏曲」大沼哲、「クワージワルツ」菅原明朗
2部:  「マンドリンの群」ブラッコ
 マンドリン独奏「ヴィジオーネ」EGAWA
 「砂漠の沃地にて」マルティ
 ギター初のステージ、二重奏「第一歩」ソル[堀清隆・益銈之助]
 「ハンガリア舞曲 5番・6番」ブラームス

第3回私演会? 京都YMCA
 この頃より、菅原明朗氏に就いて管弦楽器編成学の研究を始めた。
「マンドリンギター研究」誌はこの演奏会について『去年第一回コンコルソに彗星の如く出でて優勝した同クラブの其後の発展は心強いが菅原氏をコーチとする為すべてがスガハライズムになり且シンフォニアイズムに成っては却って嬉しくない。同志社は同志社の個性の美を何処迄も尊重し且発達せしむべきである』と評した。
 プログラム(私演3、定演97、中野先生謝恩演奏会)・「マンドリンギター研究」1(1)[1924]

[1923.11.28]
同志社イブ出演。岡崎市公会堂。
出演団体は、SMD・グリークラブ・プリムローズクラブ・語学部(英語劇)・邦楽部(尺八合奏)・高商部音楽部(提琴独奏)・ホザナクラブ・竹志会(尺八合唱)。最後に一同で校歌2唱し、同志社チヤー3唱。
 「同志社時報」216[1924]