1924(大正13)
[1924. 6. 4]
 第4回私演会 マンドリンの夕べ。京都YMCA。
1部: 堀清隆指揮
 「悲しきマーチ」「ムニュエ・ロマンティック」堀清隆
 マンドリン五重奏「古雅なる舞曲」クレンゲル(菅原明朗)[池田・大角・荒井・堀 井・伊藤]
 ギター二重奏「露西亜の想ひ出」ソル[益戸・宮井]
 「組曲西班牙」ファルボ
2部: 菅原明朗氏指揮
 「即興詩」菅原明朗[オーケストラ伴奏付マンドリン独奏:下村]
 マンドリン四重奏「ハ長調四部曲」ムニエル[副田・太田黒・続木・熊谷]
 「エカーヴの嘆き」ラウダス
 プログラム(私演4、中野先生謝恩演奏会)・「マンドリンギター研究」1(6)[1924]

第4回私演会 菅原明朗氏と共に 京都YMCA
[1924.10.17]
神戸YMCAで、グリークラブと共に演奏会を開催。
 「創立30周年紀年号」(グリークラブ)

[1924.10.19]
第5回私演会 故徳見清一氏の霊に捧ぐマンドリンの夕べ。京都YMCA。
堀清隆指揮、菅原明朗氏(Conferancier)
1部:  「オラッチ兄弟とクリアッチ兄弟」チマローザ(ポーリ)  
マンドリン三重奏「モメント・ミュージカル」シューベルト(C.ムニエル)
 「タランテラ・ディ・コンツェルト」マチョッキ、「宝石の舞曲」C.ムニエル
2部:  「嘆きの天使」マチョッキ、「オリエンターレ」キュイ(菅原)
 マンドリン四重奏「ニ長調四重奏曲」C.ムニエル
 「麦祭」(男声コーラス付)マチョッキ[本邦初演]

 解説文が武井氏の「マンドリン・ギター研究」に転載される。徳見はSMDの 文書掛として活躍していたが、在学中に夭折した。武井氏が大正14年に出版した 「マンドリン・ギター片影」の序に「・・・天逝せし、篤学者故徳見清一氏に捧 ぐ・・・」とある。
 プログラム(私演5、定演97、中野先生謝恩演奏会)

[1924.11. 9]  同志社大音楽会。大阪市公会堂。
1:マンドリンオーケストラ マンドリンクラブ
 「響楽詩エカーヴの嘆き」ラウダス
2:男声合唱 グリークラブ
3:弦楽四重奏 同志社クワルテット
4:男声合唱 プリムローズクラブ
5:ハーモニカオーケストラ ハーモニカソサイエティ
6:マンドリンオーケストラ及び男声合唱 マンドリンクラブ
 「大幻想曲麦祭」マチオッキ
7:男声合唱 プリムローズクラブ
8:弦楽四重奏 同志社クワルテット
9:ハーモニカオーケストラ ハーモニカソサイエティ
10:同志社校歌
 プログラム

[1924.11.30]
第2回全国マンドリン合奏団競演会
 武井守成氏のオルケストラ・シンフォニカ・タケヰ(震災後シンフォニア・マンドリニ・オルケストラを改称)主催。審査委員は前回の4氏に加え沢(田中)常彦。
 課題曲はファンタウィッツ「ソレントの女」。参加団体と随意曲は、アニマ・マンドリンクラブ「交響的前奏曲」ボッタケアーリ、東京プレクトラムソサエティー「メリアの平原に立ちて」マネンテ、法政マンドリンクラブ「ヨランダ」プロヴェラ、明治大学マンドリンクラブ「オラッチ兄弟とクリアッチ兄弟」チマローザ(ポーリ)、東京帝国大学マンドリンクラブ「ローラ序曲」ラヴィトラーノ、ニアポリタン・マンドリンクラブ「セムピオーネ墜道の穿貫」ド・ジョバンニ、オルケストラ・エトワール「詩的序楽」アネルリ、東京マンドリン協会「夜の女神」アレン、早稲田大学マンドリン部「マンドリンの群れ」ブラッコ、同志社大学マンドリンクラブ「ギリシャ風主題による前奏曲」ラウダス。
 この競演会に備えて、SMDは深草瑞光寺で合宿を行ない、往々午前2時まで猛練習をつんだ。結果は、オルケストラ・エトワールと同位優勝。優勝杯は一つしか用意されていなかったので、双方の代表者がカップの両端を握って記念写真を撮った。帝国ホテルで祝賀会。
同志社のメンバーは総勢22名。
 指揮者:桂 直樹
 第1M:下村安弘、太田黒養二、池田準左右、村上辰雄
 第2M:副田壬一、郭 頂順、伊藤新太郎、草刈徳三
 マンドラ:続木 馨、小嶋憲太郎、荒井 清、甲橋定一郎
 ギター:宮井 澄、伊藤 栄、赤井幸造、山田
 セロ:熊谷忠四郎、堀井隆吾
 打楽器:下山鉄之助、森本芳雄
 「同志社50年史」・プログラム(定演97)

左:第2回優勝杯  右:第1回優勝杯

[1924.12. 5]
 全日本マンドリン合奏団競演会優勝祝賀会。同志社公会堂。グリークラブ等参加。
 「創立30周年紀年号」(グリークラブ)

[1924.12. 6]
 同志社音楽部名古屋演奏旅行。門前小学校講堂。
同志社創立50周年紀年宣伝活動のため行なわれる。片桐哲教授の引率のもと、SMD・グリークラブ・シャイベリー教授・同リリアン嬢等が参加。
 後にSMDの技術講師となる中野二郎氏はこの演奏会をつぎのように回顧している。『東京の様子はマンドリンギター誌によって多少知っていましたが、関西のことは少しも判っていませんでした。が大正12年1月全国マンドリン合奏コンクールが東京で開かれ、京都の同志社大学マンドリンクラブが優勝したことで全国のマンドリン愛好者が一様に瞠目、私も井の中の蛙であることに気付いたのです。翌大正13年11月には第2回のコンクールが開かれ、又しても同大MCはエトワールと同位で優勝を攫ってしまったのです。幸にもその直後、菅原明朗先生の指揮で、同志社大学マンドリンクラブの生の演奏を名古屋で聴くことが出来、深い感銘を受けました。が、何が一番印象深かったかと云えば、ラウダスのギリシャ風狂詩曲の最高潮時に達するときタンバリンの担当者が、楽器をよく見えない下の方から徐々に持ち上げてフォルティシモには背伸びまでして高く掲げて打ち鳴らし、ディミヌエンドで徐々に又下げる仕草に嘆息まで洩らしたのですから情けない仕儀です。又カラーチェのダンツァ・エ・カンタービレを独奏した副田壬一氏の大きなゼスチュアも印象的でした』
「創立30周年紀年号」(グリークラブ)・プログラム(定演116)