1928(昭和3)
[1928. 1.10]
 新春第1回の会合を開き、3学期の練習について協議。
 「Musastudie」4[1928]

[1928. 1.13]
 新年第1回の練習を十字屋で行う。
 「Musastudie」4[1928]

[1928. 2. 1]
 送別演奏会。同志社公会堂。
 「Musastudie」4[1928]

[1928. 2. 3]
 JOBKより放送。
マンドリン五重奏「セレブル・メヌエット」ボッケリーニ、「セレナータ」トセリ
オーケストラ「海の組曲第2楽章」アマデイ、「オリアッチ兄弟とクリアッチ兄弟」チマローザ
 「Musastudie」4[1928]

[1928. 2.25]
 卒業生送別会。東洋亭。
本年度目的であった満朝演奏旅行が都合により中止となったが、上海のOBの招待により上海演奏旅行を決定。
 「Musastudie」4[1928]

[1928. 3.27- 4. 3]
 上海演奏旅行。
一行は、SMD、男声合唱団(グリークラブ・プリムローズ)、ハーモニカソサイティの14名。
3月27日:OBの熊谷・柴田の見送りを受けて上海丸にて神戸出港。
31日:日本人青年館演奏会。
4月1日:同所に於て小学生・女学生のために昼夜2回演奏会。
2日:中国青年会館演奏会
3日:長崎丸にて帰路に着く。
SMD:  「叙情的間奏曲」ファルボ
 「今日の喜び」武井守成
 「エカーブの嘆 き」ラウダス
 「麦祭」マチョッキ
 「Musastudie」4[1928]・「創立30周年紀年号」(グリークラブ)

[1928. 3.31]
 イタリアのマンドリン誌「イルプレットロ」に写真入りでSMD紹介。
「全ての 情熱と鍛錬を芸術に捧げている若々しい学生達」とある。
 プログラム(定演97)

「Il Plettro」誌記事 1928.3.31

[1928. 5.20]
 10キロ放送祝賀デーに出演。
「バレエ」堀清隆、「ロマンツァ」ムニエル、「セレナーデ」マリネルリ、「第四司伴楽」コルマネック
 「Musastudie」4[1928]

[1928. 6. 9]
  第11回私演会  エスティユディアンティーナの夕べ。京都YMCA。
北村恵三指揮
1部:
 「過去への讃仰」メルラーナ・フォクト
 「独創的第1イ長調三部楽」ムニエル[山崎・広松・西田]
 「ミヌエット」ヴェラチーニ(ラニエリ)
 「歌劇ゴエスカスの間奏曲」グラナドス(菅原明朗)
2部:
 「バレー陽炎」堀清隆
「牧歌」ジュディチ
 「第五ニ長調小司伴曲」 コルマネック[西村・山崎・酒井・広松・土方・佐々木]
 「土耳古後宮よりの誘拐序楽」モーツァルト(ラニエリ)
 プログラムに『陽炎は昨年オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ主催のオーケストラ曲コンコルソに於いて第二等に當選したものであります。此曲の制作に着手した頃はまだ作者が當クラブの指揮者であったので私共にとって一層懐かしく 思はれます。そして永らくスケッチの侭放置されてゐたのを、コンコルソに応募 するため完成したものであります。堀氏の作品中、ギター独奏曲「船唄」は大正 十三年第一回コンコルソに當選し、オーケストラ曲「かがひ」「悲しきマーチ」 「ミヌエット」は第一回及び第四回私演会に上演しました。今夕此バレーを演奏 して作品の當選を祝ふ事にしました』
 プログラム(私演11)

[1928. 6.10]
 親睦会。「いろは」。
 「Musastudie」4[1928]

[1928. 6.13]
 校内大音楽会。私演会演奏曲目を演奏。
「Musastudie」4[1928]

[1928. 7]
 オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ主催マンドリンオーケストラ曲コンコルソに、堀清隆の「十の変奏曲」が鈴木静一氏の「北夷」と共に2等入選。1等は該当曲なし。
 「マンドリンギター研究」5(9)[1928]

[1928. 7.10-20]
 夏期合宿。伏見桃山。
OBの熊谷・瀧・申橋、合奏部員の佐々木・山崎・西村・小関・丸山・服部・北村・下山、トレーニング部員の小林・金居・田中・高木・山口の16名が参加。
 朝7時、調律用に天井から吊したチューブホーンを、賄いのお婆さんが鐘代わ りに叩いて起床を促す。9時、八畳の部屋にギターを除く全部員が円形に座り、 トレモロの矯正と統一と耐久力をつけるために教則本の第1ページから始める。10 時から講義・研究の時間。全員が集まり、堅くならないよう旭光型に寝ころび、OB の講義を聞く。11時から1時間、オーケストラ・ギター・トレーニング部員の3つ のグループに分かれて教則 本の難所・要所を徹底練習。12時から昼食と随意練習。1時から3時まで弾奏禁止。自由時間というものの、遊びに出ることは許されない。そこで、あちこちでいびきをかいて昼寝。親の代から昼寝は禁止という連中が、台所の隅で弾奏。練習曲目は「東洋の夢」。3時の鐘を合図に、教則本を中心に5時まで練習。入浴と夕食後外出し、宇治川に沿って観月橋に出る。夕日は対岸の白壁を茜色に染め出して静かに暮れ行く。7時半から9時半まではオーケストラまたは室楽の練習。シャツ一枚の部員に蚊の大群がおそう。10時の消灯まで談笑。冗談、しゃれ、悪口、アラ捜し。但し、無邪気と円満さは少しも欠けない楽しい時間。
 「Musastudie」1[1928]

[1928. 9. 1]
 SMD機関誌「La Musastudie」(月刊)創刊。
申橋定一郎編集。誌名は合成語で音楽研究の意味。内容のほとんどは、音楽理論・音楽史等。
 「SMD会」1[1960]

[1928. 9. 1- 9]
 私演会に備えて合宿。伏見。
参加者は、OBの熊谷・申橋を加えて、北村・山崎・亀田・小関・山口・有村・酒井・服部・金居・下山。
 「Musastudie」2[1928]

[1928.10]
 部員訪問記。
『学生の多い町と云えば吉田、それに次いで加茂あたりだろう。その下加茂に住まう下山君を訪ねる。京都へ来て以来十数回目の下宿といわれる田舎風の暗い家の土間に這入る。
 「下山君は..」とそこにいあわせた娘(後でお初という芳名を知る)に問う。「はあ、いはる」返事はあっさりしている事夥しい。奥へ這入ると二階建ての家があり、つきあたりに階段がある。そこから「下山君」と怒鳴る。我ながら大きな声だと思う。暫くして悠長に「オーイ」とバスの声がする。正しく彼だ。
 南と北のあいた夏向の部屋だ。部屋を見ると大体その人の趣味とか性質が解ると云うものだ。我暫く大眼を瞳って見廻す。まづ西側を見ると押し入れに並んで床がある。床の上に本棚があり教科書と全集ものがつまっている。何か音楽の本はと見ると前田三男著「音楽の常識」がある。眼を上げると金縁の額に女の古いチェロの様な楽器をひいている写真が我を悦ばす。さてその前に小さな机があり、又その反対の裏側にも亦机と椅子がある。その上に桃色のカヴァーのかぶさったスタンドが鈍い光をはなっている。この光がこの部屋を瀟洒にし、アラもかくしてくれるのだろう。東側の壁はミレーの晩鐘の額がある。その横に袴、帽子、洋服、オーバーと下宿独特の陳列がある。先づこんなものだがきれいに片付けてあるので我も感心させられる。(下山君一つ世話したろか)。
 部屋の様子はこの位にして下山君について書こう。現在は下山君はキタルローネを弾いている。最近に至っては彼の巨大な楽器を見事我がものにして弾きこなすのは、流石他と比較せぬ迄も驚嘆に値するだろう。同志社に這入るよりクラブに入り、第二回の競演会に出で、その後マンドラに廻り、クラブ革新後マンドローネ、キタルローネと現在の位置に治まったのは他に例のない忠実に努力する彼のみのよくなすところだろう。さて下山鉄之助君、通称「鉄ちゃん」と云うと可愛い坊ちゃんの様に聴こえる。然し実を云うと生まれた時、彼の祖父は「鬼丸」と命名したそうだ。(諸君私演会のプログラムにこの下山鬼丸と載ることを想像し給へ)。然し感ずるところあって鉄之助としたのだそうである。(やれやれ)
 偉大な九州熊本産の体駆、維新の剣客の如き名前の鉄之助も話してみるといとやさしき、やはりデリケートな楽器に自分を慰め欝を晴らし、説けぬ謎を訴える若人である。「一曲きかしてくれぬか」と熱心に出ると、横にあったギターを手にする。座って弾くのだから無理かもしれぬが右足の毛臑をヌッと前に押し出した。我その足の太さに怖気づいて帰ろうかと思ったがせっかく所望したので座を正す。かなり指は太い方だが器用に動く。(これは手の指)。語るところによると少なくとも一日に三時間は弾くそうである。その努力こそ凡る楽器をものにした賜であろうと感服する。
 雲間を離れた月が部屋の中迄流れこむ。月に誘われて一緒に加茂川に浮かれ出る。』
 「Musastudie」2[1928]

[1928.10. 3]
 予科学生会歌発表大音楽会クァルテット出演。
 「Musastudie」24[1928]

[1928.10. 7]
 伏見城南会主催音楽会クァルテット出演。
 「Musastudie」24[1928]

[1928.10.15]
 島之内婦人会主催大音楽会出演。大阪朝日会館。
 「Musastudie」4[1928]

[1928.10.22]
 SMD主催で、川瀬晃氏・左津川渉氏ギターの夕開催。
 「マンドリンギター研究」5(2)[1928]

[1928.10.28]
水泳部基金募集のため同志社公会堂に於て演奏会を開催。
 「Musastudie」4[1928]

[1928.11. 3]
 年来の念願だったティンパニーを購入。
 「Musastudie」4[1928]

[1928.11. 4]
 第12回私演会 エスティユディアンティーナの夕べ。京都YMCA。
北村恵三指揮
 「祝典序楽」大沼哲
 「昔トウーレに王ありき」ヴェルキ
 「水彩画−春の使」ヴィント
 「アンダンテ・カンタービレ・コンモート(交響曲1番第2楽章)」ベートーヴェン(ラニエリ)
 「ロマンツァ」ボッキアリーニ(ベルレンギ)
 「アレグロ・スケルツアンド」コルマネック
 「憧れ」リッター
 「劇的序楽」カペレッティ

 『11月4日は隈なく晴れた小春日和であったことをうれしく思う。3時頃早くも部員一同が集まる。ステージの配置がすむ。前日到着した手垢一つついていない新調の私達のティムパニーが、ステージの後方に異彩をはなって私達を悦ばせてくれる。入口で例の通りプログラム折に忙しい。控室では山崎君等が楽器の調律に夢中である。4時半に今日は練習前に食事をする。流石にヤカマしい連中も食事の時は静かである。或はSMDプロペラ組の廣松君が生憎まだ見えないためかもしれない。御大典のため人々が落ちついた気分で聴きにくるかという懸念も開会前には見事なくなってしまう。やっぱり違うねと得意がるものもある。
 正7時祝典序楽を以て何の滞りもなく、快く開会する。今秋は五つのステージが全部オーケストラのため奏者もより気分が緊張し却って懸念していたものも、難なく演奏されたことをどんなにかうれしく思う。蓋し調律の任にあった熊谷氏等の御苦労に感謝します。斯くして無事気持ちよくステージが進み殊に最後の劇的序楽では聴衆がアンコールをして帰ろうとしなかった事は苦労して纏めたあの曲のためと思うとたまらなくうれしくなった。そして夢中で直立した気分を未だ忘れない。
 [写真撮影、後片付けの後]全部揃って茶話会のため東洋亭に向かう。興奮した頬を冷たい夜風が撫でて行くのが気持ちよい。廣松君の司会で会が始まり、新しく正部員に推薦された諸君の紹介があり、色々と雑談に入る。斯くして会も終る。たった一つのこした仕事をなし得たという、限りしれぬ悦楽に浸って帰路についた。』
 プログラム(私演12)・「Musastudie」3[1928]

[1928.11.17]
 大園遊会にて演奏。
 「Musastudie」4[1928]

[1928.11.23]
 御大典で天皇が御所に滞在中の23日午前2時有終館に火災発生し、以後、一切の音楽会が中止された。先だって15日の同志社新聞に、御大典記念奉祝音楽会を京都の生命保険会社連盟主催で円山公園音楽堂で開催する事を告示しているが、恐らく開催中止になったと思われる。予定では、同志社大学よりSMD、プリムローズクラブ、高商よりハーモニカソサイティが出演、SMDの曲目は「エカーブの嘆き」ラウダス、「ミレーナ」マチョッキ、「祝典序楽」大沼哲となっている。
 「同志社新聞」31[1928.11.15]

[1928.11.28]
 部員会議。今後の方針、来年度の計画について協議。新理事に山崎喜三郎・下山鉄之助・廣松篤治を選出。
 「Musastudie」4[1928]

[1928.12.14]
 有終館の火災により、同志社イブの演奏会は中止されたが、学友会理事会で代わりとして送別記念音楽会を翌1月19日に開催することを決定。
 「同志社新聞」33[1928.12.15」